大学進学からスーパーリーグ、アメリカ挑戦の時の田臥勇太。アメリカの壁は高かったのか?

高校卒業後、田臥はアメリカの大学に進学をする。
NCAA2部のブリガムヤング大学ハワイ校へ留学。

 

しかし、ここで待ち受けていたのは苦悩だったと思う。

 

2年間は単位取得や怪我(椎間板ヘルニア)のためにプレイが出来なかった。
高校時代は3年間コートに立ち続けたのに、アメリカに行ったら、怪我・・・単位取得・・・

 

プレイできない日々が続いた。

 

 

しかし、初めて選手登録された2001年には、
「日本のジョーダン」
と紹介され、全試合に先発出場。
MVPに選ばれたゲームもあった。

 

そして、2002年、大学を3年半で中退し日本に復帰することになる。

 






 

大学中退→日本復帰。

 

当時の日本ではまだプロリーグが存在しなく
田臥は、トヨタ自動車アルバルクに入団。

 

たった1年ではあったが、日本でプレイした後に退団をし
田臥のアメリカ挑戦は始まった。

 

2003年。
NBAダラス・マーベリックスのサマーリーグに参加。
同年9月、NBAのデンバー・ナゲッツと契約し、プレシーズン戦3試合に出場。
しかし、開幕ロースターには残れず解雇。

 

やはりNBAの壁は高いのか?

 

田臥に期待していたバスケットボールファンはそう思ったかもしれない。

 

ちなみに、この時、ナゲッツのチームメイトには
田臥よりも身長の低い165cmのアール・ボイキンスがいた。

 


(アール・ボイキンス)

 

この年のNBA入りが果たせなかった田臥は
ABAのロングビーチ・ジャム・アルビレックスと契約。

 

ちなみに、ロングビーチ・ジャムでは
デニス・ロッドマンとも一緒にプレイしていた。

デニス・ロッドマンと田臥。

 

すごいツーショットですね。

 

 

 




 

そして時は来た。

 

2004年9月6日、NBAフェニックス・サンズと契約。

 

同年11月1日、フェニックス・サンズの開幕メンバーに登録。
日本人として初めてのNBAプレーヤーとなった。

 

 

しかし、その後、開幕戦を含む4試合に出場し
同年12月18日に解雇された。

 

やっと届いたNBAだったが、まだ壁が高かった。

 

プレー時間は合計17分
7得点3アシスト

 

これが、田臥がNBAで残した数字だ。

 

 

 

この年のサンズには、後にシーズンMVP、アシスト王になる
スティーブ・ナッシュが1番手のポイントガードとして所属していて
非常にポイントガードの選手層は厚いチームだった。

 

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その後、ABAのロングビーチ・ジャムと再契約し、NBAへの復帰を目指した。

 

 

2005年
NBAロサンゼルス・クリッパーズと契約し、プレシーズン戦7試合に出場。
NBA復帰が期待された。

 

 

しかし、開幕前の10月31日に経験不足を理由に解雇。

 

 

同年NBA傘下のNBAデベロップメント・リーグにドラフト指名され
アルバカーキ・サンダーバーズに入団。

 

チームの主力選手として活躍したが、シーズン後半に怪我で戦線離脱。

 

 

2006年7月、NBAダラス・マーベリックスのサマーリーグに参加。

 

同年、NBAデベロップメントリーグのベーカーズフィールド・ジャム指名を受けて入団。

 

2007年11月にジャムのロースターから外れ、同リーグのアナハイム・アーセナルへ移籍。

 

 

2008年7月、NBAニュージャージー・ネッツのサマーリーグに参加。

 

その後、当時JBLのリンク栃木ブレックスに入団し日本復帰をした。

 

ちなみに、この時の栃木ブレックスのヘッドコーチは、能代工時代の指導者加藤三彦氏だった。