パスやドリブル、圧倒的なパワーで観客を魅了する選手が多くいる中、スピードで見るものを楽しませた選手は数少ない。
そんな数少ない選手の一人がラトレル・スプリーウェルだ。
速攻の先頭を走り、チームに勢いをもたらすプレイスタイルは大いに称賛された。
身体能力の高さでNBAを席捲
スプリーウェルは1992年のNBAドラフトで、ゴールデンステート・ウォリアーズに全体24位で指名された。
当時スプリーウェルは無名選手であったため、そのピックを疑問視したファンも多数存在した。
しかし、シーズンが始まるとその身体能力の高さを遺憾なく発揮し、チームを引っ張る存在になったのだ。
スプリーウェル最大の武器はスピードだ。
トップスピードに入るまでの時間が極端に短く、速攻の先頭に立てば誰も彼に追いつくことができなかった。
対面でも、僅かな動きで素早くマークマンを外すと、ゴール下へと切り込んだ。
首絞め事件でキャリアに影を落とす
1997-98シーズン、ウォリアーズの監督にP・J・カーリシモ監督が就任すると、スプリーウェルとカーリシモが衝突。
口論の末、スプリーウェルは「殺すぞ」と叫びながらカーリシモの首を絞めてしまう。
このことは国内で大きく問題視され、スポンサーであったコンバースはスプリーウェルとの契約を解消。
82試合出場停止の処分を下され、ウォリアーズからも追放された。
『札付きの問題児』
のレッテル貼られたスプリーウェルは、この一軒でキャリアに影を落とす格好となってしまった。
ミラクル・ニックスの立役者に
ロックアウトの影響で50試合に短縮された翌1998-99シーズン。
スプリーウェルはニューヨーク・ニックスに所属する。
パトリック・ユーイングやラリー・ジョンソンを擁するチームの中で平均16.4ポイントを挙げるなど貢献を見せ、ギリギリの8位でチームをプレイオフへと導いた。
1回戦ではシーズン1位のマイアミ・ヒートと対戦。
誰もがヒート有利と見ていたカードで、なんとニックスはヒートを撃破。
8位のチームが1位のチームを破ったのはNBA史上2チーム目で、ニックスは勢いそのままにNBAファイナルにまで駒を進めたのだ。
ファイナルではサンアントニオ・スパーズに敗れて惜しくも優勝は逃したものの、奇跡的な勝ちあがり方をしたニックスは
『ミラクルニックス』
と呼ばれ、その中心選手であったスプリーウェルも大きな称賛を受けた。
現在のスプリーウェルはどうなっている?
キャリアに影を落とすことはあったものの、そのプレイスタイルは観客を魅了し、高く評価された。
そんなスプリーウェルは、いったいどうしているのだろう。
スプリーウェルのその後を追った動画がYouTubeで公開されている。
動画によると、スプリーウェルは2003年までニックスでプレイし、ミネソタ・ティンバーウルブズで2シーズン過ごした後、所属先が決まらず事実上引退。
以降、女性を暴行したり酒を飲みながらボートを運転して事故を起こしたりと、『札付きの問題児』の頃のような注目のされ方をしているとのことだ。
ディフェンスを一瞬で置き去りにするプレイが代名詞だったスプリーウェル。
輝かしい時間も、まさに「一瞬」だったようだ。